この世は存在するか。

この世は存在するのだろうか。

あまりに当たり前過ぎることは疑問に思わない。

この世とは、時間や出来事などの記録や記憶を含む宇宙空間のこと。

幅、奥行き、高さがあり、物質があり、重力があり、光がある、つまりは自分が存在していると思っている世界。

生きていて色々なことを知り、考え、不思議に思ったり疑ったりする。

地球は球体をしていて自転をし、重力により地面に立っていられる。宇宙は真空で果てがなく、その果ては現在も光よりも速いスピードで広がっている。

そんなことを知識として得ているが、自分で確かめたことがない。科学者が観測により、そう結論付けたものを正しいこととして扱っているだけだ。

この宇宙を構成している物質は、本当に存在するのだろうか。あまりにも存在感があるので疑うことすらしないが、よく考えると不思議に思う。

ものを触った時に肌に感じる感触の実在感。

あまりに自然に感じるので、触れたものが「ある」ということを疑うことは難しい。

冬にあまりの寒さに、足首から先がかじかんで感覚が無くなったことがある。足先が無くなったような感覚に陥った。手でその部分を触ってみても、何かの肉塊を触っている気がして、自分の体の一部に触れている感じがしなかった。自分の体全体を意識してみたが、その時は、自分の足先は存在しなかった。

脳が足先の感覚を得られないため足先が無いと錯覚したのだ。脳が無いと判断したということは、錯覚ではなく、実際に存在しないということだ。

片目を交互に瞑って見える景色は微妙に違う。両目で見た時は、脳が二つの像のズレを補正し、合成して一つの像に作り上げている。

この例を取り上げただけでも、自分が認識しているこの世界は脳が作り出したものだと捉えることができる。

自分の足先があるという記憶が無く、足先を目で見て確認しなければ、足先は自分の体には無いことになる。足先の記憶があり、目で見て確認した時に、足先の感覚が無くても、足先があると認識する。

目で見た情報は脳が作り出したもので、記憶も脳が作り上げたものだとすると、足先が本当にあるのかわからない。

絶対に存在すると言い切ることができない。

自分が感じているこの世界は、脳が見せる世界を受け取って認識している。

脳が作り出しさえすれば、実際に物質が存在しなくても現実感を持って感じることができる。その脳さえ物質でできているのなら、脳さえも実在しなくても現実感を持って、この世界を認識できるのでは無いだろうか。

この世は存在するのだろうか。

物質とは立体的なもの。体積がある。その立体的なものを孕んだ宇宙空間自体はどこにあるのだろう?この宇宙空間を含んだ空間というか世界はどこにあるのだろう。

きっと空間なんてものは無い。

私は、この世は「実在はしないが、存在する」と考える。

この文章を打ち込んでいるキーボード、座っている椅子、部屋、建物、街、地面や空気。あまりにも現実感があるが、それらは全て「設定」である。その設定に従って、この世界が実在していることにして体験をしているのだ。

この考えに沿って、この世界のことを考えた時、立体的な物質、とてつもない距離のある宇宙空間、自分以外の認識を持っているであろう存在も、自分の胸の一点に全て同時に存在している感覚に陥る。

点は、幅、奥行き、高さがないので実在はしない。実在はしないが、私が認識しているということは、存在している。


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